cinema note*

観た映画のことをつらつらと。グザヴィエ・ドラン、フランソワ・オゾン、ペドロ・アルモドバルなどクィア映画に傾倒しています。

Representations on Trans Cinema

この文章は全然映画評とは関係のない私的なものなので悪しからず…その上ちょっと長いです。


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先日、トランスジェンダー映画を主題とした論文を、属する大学院に提出しました。
実はトランスジェンダー映画に特化した研究というのは、日本ではあまり行われていません。
というのも、トランスジェンダー映画、これは特に欧米では「トランスシネマ」と呼ばれるのですが、トランスシネマ自体がメインストリーム上ではまだそんなに製作されていないから、そしてゲイ・レズビアン映画に比べ未だ周縁的だからと言えるからかもしれません。
論文内には私的体験を書くことはできなかったのですが、今回このテーマを選んだのはグザヴィエ・ドランの『わたしはロランス』がきっかけです。


それは私が中学生のとき、国語の授業の時間に先生がいつものようにプリントを集め始めたときのことでした。
その時いつもと違ったのは、プリントを入れる箱に「ズボンを履いた人の赤い色のピクトグラフ」と「スカートを履いた人の青い色のピクトグラフ」が書かれていたことです。それを見た生徒たちは当然困惑し、結果としてその箱にはプリントがバラバラに入れられました。
男女のバラバラになったプリントの入った箱を見た私は、男女の区分けというものがいかに人間が勝手に決めたものかを知り、本来はきっとこの「ぐちゃぐちゃになった箱」こそが正しいのだと思いました。

その時の経験を次に思い出したのは大学生のときでした。
ある映画会社で働かせてもらっていた時に、上司と某テレビ局の人に会いに行く約束がありました。
事前に名刺を確認させてもらっていたので、男の人なんだな、くらいに思っていました。
ところがそこに現れたのは、綺麗な長い髪で、ピンクのネイルをした人。
最初こそ意表を突かれたものの、とても快活な人であっという間に時間が過ぎていました。
でも、その帰り道に上司がこう言いました。
あの人は本当は報道に行きたいらしんだけど、あのみてくれじゃ無理なんだよ、と。
何故、自己表現の在り方次第で希望とすることができなくなるんだろうと、どこか悔しいような、どうしようもない気持ちに陥りました。
そして、その時の憤りのようなものを抱えたまま時は経ち、『わたしはロランス』に出逢いました。
この作品はそれまでのそういった気持ちを思い起こさせると同時に、必ずこの作品を使って大きなまとまった文章を書きたいと私に強く思わせました。
その時からなんとなく構想を考えて、そしてようやく書き終えました。(それまで蓄積したものをまとめる執筆作業に要したのは一ヶ月間くらいですが)
正直、ロランスから始まった論文にもかかわらず、四作品取り上げた内、最後まで書ききれなかったのもロランスでした。
想い入れの強い対象ほど上手く言葉にできないことを改めて痛感しました。
トランスジェンダーに関する本文の中には、間違いや誤解もたくさんあるかもしれません。
それでも、たとえ稚拙でも、どんな生き方をする人もどんな人も、不当に虐げられることがあってはならないのだと、そして、芸術が、映画が、決してそんなことに加担することがあることのないようにと。
そんなことを願いながら、一字一句大切に書きました。
論文の中で繰り返し繰り返し言ってることが一つあるんですが(寧ろ一つだけしかないような気さえする)、それを一言にしてしまうとどうしようもなく陳腐で説得力がなくなってしまうから、それを伝えるために出来る限りの言葉を尽くしたのだと思います。


P.S 大学のリポジトリでは公開されないかもしれませんので、もし読みたいと思ってくださる方がいれば気軽にDMかメールしてください。