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cinema note*

観た映画のことをつらつらと。グザヴィエ・ドラン、フランソワ・オゾン、ペドロ・アルモドバルなどクィア映画に傾倒しています。

【THE LOVERS ON THE BRIDGE】

          レオス・カラックスポンヌフの恋人

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 本作は、『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』に続く、ドニ・ラヴァンレオス・カラックス監督の分身のアレックスとして登場する「アレックス青春三部作」の最終作である。この映画の舞台はフランスで最も古い橋、ポンヌフの橋。映画の中の橋とは、別の世界を繋ぐ境界であり、出会いや別離の場でもある。そして世界と世界の狭間という意味においては不安定さの象徴にもなりえる。本作ではこれらの橋の役割が十分に発揮されており、片足が不自由で浮浪者でもある不安定なアレックス自身の人物表象そのものにもなっている。ミシェルもまた家出をしてきた少女であり、失明する不治の病にかかっている未来の見えない不安定な存在である。しかもこの橋は改装中であり、不安定である上に、不完全な建造物だ。不完全な建造物の上で、片目の見えない少女と片足の不自由な少年という不完全な人間二人が邂逅する。改装中の橋は、身体的にも精神的にも欠陥を抱えている彼らにこの先訪れるであろう修復、或いは崩壊を示唆する。
 さらに改装中の通行禁止の橋は、他者が入ってくることのない閉鎖的な世界を作り上げる。多くの人にとって橋はただ通り過ぎ去るだけのものであるが、彼らにとってのそれは留まる場所であり、帰属の場所であった。しかし、「治らないものはない」というミシェルの言葉の通り、橋の改装もいずれ終わる。それは二人の世界の終焉を告げる。クライマックスで二人は改装が終わった橋の上で再会するが、もうそこは二人だけの世界ではなく多くの人々が行き来する開かれた世界であった。そんな世界にまだ慣れないとでもいわんばかりに、車にぶつかりそうになりながら歩いてお互いに近づく。

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 結末の舞台で橋の完成と共にもう一つ大きく様変わりしているのは、雪景色になっている点である。ここで降っているものが雪ではなく雨だったとしたら、ペシミスティックな雰囲気に覆われていたであろうこの場面も、真っ白な雪によって救われている。この雪はセットに人工的に積もらされた雪であり、特定の演出を狙ったものであることが伺える。それは楽観的な演出の為というよりも寧ろ、彼が本来抱いていた悲観的な結末を、その純白さで覆い隠すためだったのではないだろうかと考えずにはいられない。彼らが立っている場所は橋から船に移行したが、船も同じく不安定さのメタファーとして機能する。水の上の船というのは一歩踏み出せば水の中に落ちてしまう命の危険性や、水の流れに身を預けなければいけない無力性、限られた場所の上でしか身動きがとれなくなる拘束性などを内包している。よって、船にはアレックスの欲望が具現化されている。アレックスの願いは、ミシェルが自分の世界の内に留まっていてくれることだから。「帰らなければいけない」と言うミシェルに激怒したアレックスは、船に乗ることで彼女を束縛し、その願望を達成しようとする。アレックスが自分の欲望を果たすために水を利用しているのは、お金を水の中へ落下させ彼女から奪った場面からも明らかだろう。本作での水は、タルコフスキーのそれとは異なった主張をしているようにみえる。彼は水を「地球で最も美しいもの」と述べているように、揺るぎ無い美の象徴であり、様々な姿に形を変えられる神秘として描くが、カラックスにとっての水はあくまでも物質であり道具である。
 カラックス映画には必ず赤ちゃんが登場する、という指摘があるように、ミシェルがスケッチに行ったリュクサンブール公園では周りにたくさんの赤ちゃんがいたが、この映画においてはアレックスが赤ん坊の役を担っている。何も持たない無力で剥き出しの存在としての赤ん坊。彼は眠り方もわからずハンスに睡眠薬を貰って眠っていたが、ミシェルが彼に眠り方を教えてやる。眠り方だけでなくお酒の飲み方も教えてやるなど、何かを教える場面が所々に出てくる。親に従順に従う子どものように、ミシェルが盲導犬になるように言えば犬の真似をし、銃を撃てと言えばおとなしく撃つように、アレックスはミシェルの命令に逆らわない。ミシェルはアレックスの自画像を描いてやるのだが、それは彼自身の自我を形成する行為ともとれる。彼女の手によってアレックスの自我が芽生えていくその様は、恋人関係というよりも親子関係に近い。母親不在のアレックスにとってミシェルは母親である。そんなアレックスが何度か水に飛び込むのは母体回帰の願望ともとれる。母親の羊水として、安全や安らぎの対象としての水の希求。アレックスと水は切り離せない関係にある。

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 もう一つアレックスと切り離せないのは炎である。二人が出逢う路上で、ミシェルはアレックスのもとに近づいてきたバスのライトに目を痛め次のショットでは既に姿を消している。彼女が劇中で強烈な光によって目を傷める箇所が度々登場することをここでまず予期させると同時に、アレックスによってもたらされた光は彼女にとって痛みでもあることを示唆する。アレックスの大道芸の火吹きにおいても彼女はその炎の強烈な光に目を傷める。目が痛むほどの強い光を人は長く見続けていることができない。よって必然的にアレックスの強い光はミシェルの瞳をつぶらせ、盲目状態にさせる。ミシェルを盲目にさせ、世界を奪うことが彼の世界にミシェルを留まらせることのできる唯一の手段なのだ。また、アレックスもミシェルを愛しているが故の不安や恐怖から、自傷行為に走らざる得ない精神状態から免れることができずにいた。身体的な痛みが二人の関係性には不可避なものである。

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 このように、「ポンヌフの恋人」では言語よりも身体的な感覚が重要な意味をもつ。ミシェルとアレックスは言語によるコミュニケーションが極端に少ない。彼らのコミュニケーションは走る、歩く、踊る、触れる、など身体によるものである。お酒を飲んで寝っ転がって笑い合う。それだけで彼らの距離は近づいた。そして、身体的コミュニケーションが彼らにとって重要であることが最も顕著に表れるのは、祝祭で花火が打ち上がる夜空を背景に二人が踊る場面ではないだろうか。言葉は消えない。聞こえるのは大きな笑い声、花火の音、銃声、音楽のみである。言葉を発しようともそれらの音に掻き消され、相手には届かない。時に二人のコミュニケーションは暴力にまで至りながら、心の距離は近づいたり離れたりする。
 二人の間に共通している行為の一つに、窃視がある。ミシェルが初めてポンヌフの橋に訪れる場面でアレックスは彼女の絵が描かれたスケッチブックを覗き見する。彼女が倒れた時にも、ミシェルの手紙とともに、眼帯を剥がして彼女のもう一方の目を覗き見る。普段眼帯によって閉ざされたその場所は彼女にとっての闇であり、アレックスにとっての未知の領域である。ミシェルの住む場所に出向き彼女の部屋と思われる場所でノートを覗き見する。直後には、身体を洗うミシェルの裸体までをも覗き見する。愛する人の闇や私的領域に侵入するエゴイステッィクさ。
 一方ミシェルが覗くのは、恋人の部屋のドアの覗き窓である。恋人の姿を目に焼き付けておきたいという要求を拒絶された彼女は、その恋人を撃ち殺しその姿を覗く悪夢を見ている。ミシェルもまた利己的な方法で愛する人を覗きたいというエゴイスティックな感情を隠し抱いていることがこの場面でわかる。しかし、スコポフィリーの対象がアレックスはミシェルなのに対して、ミシェルは昔の恋人であることや、「あなたのことは愛していなかった。私のことは忘れて。」という置き手紙と共に橋を去ることなどをふまえて、ミシェルはアレックスのことを愛していたか?という疑問が浮かび上がる。二人の間に愛は存在したか?

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 その答えのキーパーソンとなる人物が浮浪者仲間である老人ハンスである。ハンスとミシェルが夜のルーヴル美術館に忍び込み、蝋燭の炎だけで絵画を見るシーンでは、レンブラント・ライティングが使用されている。この照明方法は、善と悪や生と死といった哲学的で重要な問題提起を描くシーンだけに使われることがほとんどだが、例に従ってこの次のシーンではハンスは溺死してしまう。彼は、女性が浮浪者になることがどれだけ悲しいことかを、自らの辛い経験から知っている。ミシェルを「お前は違う」と引き離し、もとの生活に戻そうとする点で、アレックスとは真逆の接し方をする。本当に彼女のことを大切に思っているのなら、目が回復して元の生活に戻ることが彼女の人生にとってよりよい道であり、利己的な感情でそれを妨げてはいけないのではないか。しかし、愛し方というのは様々なのだからどんな愛し方にせよ、愛してることには変わりないのではないか。私達は誰しも、泣き叫びながら無鉄砲に愛を求める飢えた赤ん坊のアレックスを自分自身に内包している。時に露呈しそうになりながら、なんとかアレックスを飼い慣らすことでハンスのような日々を送っている。
 一見すると台詞の少ない寡黙な映画であるように見えるが、ここに登場する橋、水、炎、雪、音楽・・・それら全てアレックスの内に秘めた感情を表出させることを担わされた饒舌な代弁者であることに私たちは気付く。膨大なセットの費用やアレックス役のドニ・ラヴァンの怪我などが原因で二度制作中断の危機に陥った本作は「呪いの映画」とも称されたが、違いなくカラックスによる「愛の映画」であると言える。

 

参考文献

映画表現の教科書 ─名シーンに学ぶ決定的テクニック100

レオス・カラックス―映画の21世紀へ向けて (リュミエール叢書)