cinema note*

観た映画のことをつらつらと。グザヴィエ・ドラン、フランソワ・オゾン、ペドロ・アルモドバルなどクィア映画に傾倒しています。

2017.06.25 Perspectives トラン・アン・ユン×橋口亮輔

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フランス映画祭の特別イベントとして実現された今回のトークイベント。
短い時間ながらも日・仏それぞれを代表する監督なだけあって、充実したお話を伺うことができた。

まず、トラン・アン・ユン監督は「映画には二種類ある」ということを教えてくれた。
一つは「シーンによって構成される映画」。これはシーン構成を考えたり、何を物語るかを考えるときに使われる手法。
もう一つは「シーンのない映画」。これらは観客の異なるエモーションを引き起こす。

今回フランス映画祭に出品された『ノルウェイの森』以来の新作『エタニティ』は、後者の手法によって製作された。毎日何を撮るのかわからない中、それでも撮影は進んでいくというリスキーな現場であったらしい。しかし、彼は、このタイミングで本作のような手法をとることは、人生のこの段階において必要であったという風に分析する。そして当然次に作品を撮るときには、今回はどちらの映画なのだろう?ということは考えなければいけないことだと。

橋口監督が脚本があったのかどうかを問うと、トラン監督は「プロデューサーに資金集めをしてもらうために脚本は書いていた」と述べた。
当初は従来型の台本形式で脚本を執筆していたが、それでは原作で感じた良いところが損なわれてしまうと気づき書き直した。すると、その書き直した49ページの薄い脚本が採用された。しかしあくまで脚本は手がかりでしかなく、助監督をはじめとしたしたスタッフ達とその場で何を撮るかを決めていたらしい。
その話を聞くと橋口監督は、本作はコスチュームプレイで衣装など全てを用意しなければいけないのによくそのスタイルで実現できましたね、と驚きを見せていた。

私が『エタニティ』に対して感じていた、「トラン・アン・ユンらしさ」の物足りなさに関しては、橋口監督が代弁してくれた。
それが、「『シクロ』から『エタニティ』に至るに際し、ドラマチックな物語よりも、より瞬間的なものを捉えることに興味が移ったのか、スタイルが変わったのか?」という質問である。
トラン監督によれば、「観客の心にそれまで知らなかった感情を与えるためには、それまでと違ったやり方をとらなければいけない」という。
「『エタニティ』の場合は、映像がナレーションの役割を担っている。ナレーションが語っているものと、映像をあえて異なるものにした。ロジカルな画のつなぎ方をしていないのは、観客が予知できないようにし、驚きを持って観るという効果を狙っている」のだと。
トラン監督の話を受けて橋口監督が「スタイルが変わりましたねと言いましたが、変わってないんですね」と訂正すると、トラン監督は笑顔で橋口監督に向かって指を指していた。

続けてトラン監督はこう語る。
「映画の真髄は、世界にはこんなものがありますよと教えるところにはない。そのようなレクチャー的機能はテレビが担っている。
映画というのはそうではなく、言語であり、映画言語については私もまだ習っている途中である。
観客にリスペクトを持つこと、そのような態度は新しいものを示すことにあるのだと思う。映画は他の人のことを知るものではなく、自分、或いは自分の感受性を知るものなのだ。映画にできて他の芸術にできないのは、一つの映像から一つの映像に変化する瞬間に作家の意図を込めることができるところにある。それによっていかに観客の心を動かすことができるのかということを考えることができる」

橋口監督は、『エタニティ』が多額の予算のもとで作られたために、ドラマチックなことを求められるかもしれないのにも関わらず、一定の距離感を保ちながら撮られていることにリスキーささえ感じたという。そして、その中でトラン監督が何を撮りたかったのか、思考を張り巡らせていたと。
そこで橋口監督はパトリス・ルコントの『髪結いの亭主』を引き合いに出し、自身の美しいエピソードについて語りはじめた。
不幸のどん底にいたある夕暮れ時のこと、その日はやけに夕焼けが綺麗で、公園のベンチに汗だくになりながら座っていた。すると、言いようのない感情が湧き上がってきた。それは喜びとも絶望とも言えない感情で、何故だか、ああここで終わってもいいと感じた。その時、『髪結いの亭主』の女が幸せだから死ぬのだと自殺していった意味を理解できた。そしてそこには永遠につながるようなゼロ、一瞬があったのだと。
『エタニティ』である人物が絶命する場面がまさにそれで、物語の中の彼らにとってはドラマだが、俯瞰で観る私たちにとってそれは、とても静かな永遠なのではないだろうか、と。

その場面についてトラン監督は、「「美」というものが相反するものから生まれ、矛盾がエモーションを呼ぶのだ」と独自の映画論を語る。
「平和的光景で人が死んでしまう、だからこそそこに何かしらの感情が生まれる。映画は、自分を投影して観るもの。感動することによって自問自答に出逢う。エモーションというのは、「体験型」と「表現型」がある。それがどう違うかというと、「体験型」は自分たちの人生の中で経験すること。しばしば私たちは実際に起きたことに従うことしかできない。「表現型」というのは、人生について語ること。芸術は人生について語ることであり、人生を理解すること。芸術は「表現型」である。映画は人生よりも真実かもしれない。人生を語ろうとする映画にこそ、真実がある」。

続いて、『ノルウェイの森』で共演した菊地凛子とのエピソードにも触れる。
彼女と何人かで撮影後にディナーを楽しんでいた時のこと。
少し酔っていたように見えた彼女がトラン監督の横に行って、「聞きたいことがあるの」と話しかけた。
それは「私が映画の中で泣く時と、実際の人生で泣く時、映画の中で泣く時の方が本当みたいに感じる。そんな私って怪物かしら?」という内容であった。そんな彼女に対し、トラン監督は「君と僕はアーティストなんだ。表現者にとって、演じることは生きることよりも本物なんだ」と微笑みながら答えた。

「はじめに言葉ありき」
これは聖書にあるフレーズだそうで、世界はものを言うことができることで初めて存在することができるという意味のものだ。
トラン監督はクリエイトすることによって世界は存在しているのだと述べる。
私たちはそうでければただの動物でしかないのだと。
「しかし、言葉にすることは難しい。重要だが表現というものには抵抗があり、努力がなければ成し得ないこと」

橋口監督は「表現」というものに挑むクリエイターとして自分自身の使命を、自分と他者の間にある途方もないほどの遠い距離を超えて繋がることのできる奇跡のような瞬間を、単に待つのではなく力ずくで作っていくことなのだと話す。

「私たちの仕事にはたくさんの計算がある。よく、真摯な心でクリエイトしましたというクリエイターがいるが、彼らには疑問を抱いてしまう。というのも、あらかじめたくさん計算して、その結果その感情が起こるというのが正しいと考えるからだ。ありとあらゆる洗練された計算をすることで、観客へのリスペクトの証としての作品を世に送り出すことができるんだ」
トラン監督は予てから観客の審美眼を信頼して作品作りをする監督だが、そんな監督らしい「観客へのリスペクト」という言葉をもって今回のイベントを終えられた。

マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』-最強の1970'sムービー

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純白のフォード・ギャラクシーが炎上している。
そんなファースト・ショットから始まる「1979年」を描いた物語、それがマイク・ミルズの新作『20センチュリーウーマン』である。

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『人生はビギナーズ』はミルズの父がゲイをカミングアウトしたことがきっかけで作られた映画だったが、今作は実の母親をモデルにした母と息子が描かれている。ミルズの分身である15歳の少年ジェイミーを一人で育てることに不安を感じたシングルマザーのドロシアが、二人の女性に親役を頼むところから物語は始まる。ミルズのパーソナルな部分と私物とアメリカンカルチャーがふんだんにコラージュされて出来上がった本作はまさに映画の形式を借りたコンセンプチュアル・アートである。

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名優ハンフリー・ホガードに憧れるドロシアは、町山広美に言わせると「ヒーローに愛されたいんじゃなく、ヒーローになりたい女性」らしい。
そう、ウーマン・リヴの時代はまさにそういう時代で、女性たちが男性と同等の権利を得るためには男性になるしかなかった。

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かつてウーマン・リヴを主題にしてアンディ・ウォーホールは『ウーマン・イン・リヴォルト』(1971)を世に送り出した。
三人のトランスジェンダー女性を主役に迎えた本作は、まさにミルズが時代設定とした1970年代の空気の最中で撮られた。
しかしそれはあまりにも男性に対するルサンチマンに支配されていて、女たちは怒号や悲嘆の末に草臥れて見えた。

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一方、本作に登場する三人の女性たちはあくまで快活。
浮遊するように複数の男性たちの間で情事を繰り返す退廃的な少女ジュリー。
フェミニストで先進的なアーティストであるアビー。
当時まだ珍しかったシングルマザーのドロシア。
三人はそれぞれの時代性をそのまま体現する存在である。


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執拗に繰り返される部屋の外からドア越しに中の人物を撮るショットはミルズらしさを示すショットの一つである。
外から中へ、というこのカメラの起源はミルズのトーキング・ヘッズへの嗜好にある。
本作で「ART FAG」と中傷されるトーキング・ヘッズは、ミルズによると「宇宙人が地球を俯瞰して観ている」目線を持つという。
彼のそんな目線に影響を受けたミルズは、ある別の地点から「世界はこう見えていた」という目線を『人生はビギナーズ』から引き続いて、本作においても踏襲している。
つまりそれはここでは、大人になったジェイミーの記憶の中の母に対する目線、私たち21世紀の女性たちの20世紀の女性たちに対する目線、そして全ての人が幸せだったなぁと想い出すであろういつかの「あの頃」に対する目線である。
この目線の手法があるからこそ、私たちはある種のノスタルジックさに陶酔し、そして締め付けられるような切なさに襲われる。



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P.S 同じく母と息子の愛の物語をミルズとは全く異なるタッチで描いたドランの『Mommy』を想い出さずにはいられない。
少年たちはスケートボードに乗っているかのごとく、息もつかぬ速さで疾走して大人になっていく。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』-言葉が与えしもの

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ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
『メッセージ』(2016年、アメリカ)


ジュリアン・ムーア主演『アリスのままで 』は、皮肉にも言語学者であるアリスが、若年性アルツハイマーによって言語を失っていく映画であった。
言語の消失は、すなわち彼女の世界そのものの消失を意味していた。
それほどに私たちは言語と密接に、言語の世界の中で生きている。

言語によって思考様式が変わるというのはよく言われることで、文法の異なる英語と日本語間は度々比較される。
例えば前者は結論を先に言うため判断力に長け、後者は結論を先延ばしにできるため優柔不断だという風に。

主人公である言語学者のルイーズは、未知の生命体と遭遇し、彼らの話す言語を解読しようと試みる。
その過程でヘプタポット(七本脚)と名付けられた彼らの表意文字を会得していくルイーズは、彼らの言語と母国語である英語のバイリンガルになっていく(他の言語も習得しているかもしれないが)。


1960年代、心理言語学者のスーザン・アーヴィン=トリップは日本語と英語のバイリンガル女性に対しある実験を行った。
「文末をそれぞれの言語で考え、文章を完成させる」という実験であった。
たとえば「自分の望みが家族に反対されると・・・」という文章の結末は日本語では「とても辛い」となり、英語だと「自分の好きなようにする」となった。
別の「真の友は・・・」という文章の続きでは、日本語では「互いに助け合うべきだ」となり、英語では「率直に意見すべきだ」となった。
つまり、バイリンガルは同じ人間であっても、その言語によって異なる思考様式を持っていることがこれで明らかになったのである。

ヘプタポットは時間軸を持たない。過去と現在と未来という直線的な時間軸がない。
それゆえ彼らの言語を身につけていく過程でルイーズの時間感覚も変容していく。
そして、彼女が見ていたフラッシュバックの答えが後々明かされることとなる。
その謎が一つのキーワードによって解き明かされた時の深い感動は、筆舌に尽くしがたい。

思考様式が異なれば、当然導き出される答えや選択も異なってくる。

私たちは喜劇よりも悲劇を大事に捉える。
少しの嬉しいことよりも、少しの悲しい出来事に心を支配されて生きている。

ヘプタポットの時間感覚によって、ルイーズは未来の悲しい結末という事実だけでなく、その未来に訪れる何事にも変えられない幸福感に触れることができた。
単に想像上の産物としてではなく、現在的な温度を持つ幸福として。
だからこそ、悲しみのためにその幸福を諦めることなど、手放すことなどできなかったのだろう。

ヘプタポットの言語を身につけていなかったとしても、彼女は同じ決断をしたのだろうか。

彼らの言語を持たぬ私たちは、選択に求められる想像力と感受性を、常に問われている。


参考文献
courier japon April,2017.

石井裕也『夜空はいつでも最高密度の青空だ』-「死」は青い光を纏う

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『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年、日本)
監督:石井裕也
キャスト:池松壮亮石橋静河松田龍平

何故これほどまでに映画の歴史は「青」、その色に魅せられてきたのだろうか。

『ムーンライト』で黒人の肌を美しく輝かせる色が青じゃなかったら。
『ブルーベルベッド』でドロシーの瞼に塗られた艶めかしいシャドウの色が青じゃなかったら。
アデル、ブルーは熱い色』でアデルが惹かれるエマの髪の色が青じゃなかったら。
『BLUE』でスクリーンを貫き続ける色が青じゃなかったら。

もし「青」がなかったとしたら、その色は何色だったのだろう。

本作では、月夜を見上げるその瞬間に二人を照らす色として青が象徴的に使われている。
その色はどこか死臭を感じさせるのだが、ある線虫は死の過程で本当に青い光を発するらしい。

最果タヒの詩にも死ぬという言葉がフランクと言っていいまでに登場し、私たちは映画でも二度死を目撃することとなる。

幼い頃に母親を自殺で失くし、看護師として死がいつも傍につきまとう場所にいる美香にとっては、「きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけでみんな、元気そうだと安心する」。ただきみが生きている、それだけでいい人間。

対して慎二は毎日明細書とにらめっこして生きていくための数字と格闘している。生きている、それだけではダメで、お金を稼がなくてはならない。日払いの工事現場に、生きている、それだけでいい、なんて口笛を吹いている者なぞいない。そんな「生」の泥臭さで充満している場所に生きている。

そもそも左目が見えない慎二と両目が見えている美香では見ている世界そのものが違う。
全く異なる二人が出逢うというのはこれまでのボーイミーツガールものでも定石であった。
「ねぇ、恋愛すると人間が凡庸になるって本当かな」
「そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」
恋や好きという感情に訝しい二人は、幾度とも重なる偶然を運命だと楽観的に捉えることはない。
高揚する感情に手放しで喜んだりもしない。ただゆっくりと、無意味で冗長なお喋りを重ねていくように蛇行しながら離れたり近づいたりを繰り返していく。


本作からは「恥ずかしさ」或いは「あざとさ」を感じる。
これがある若き監督のデビュー作であれば拙さをその理由にしてしまえるのだが、これは『舟を編む』('13)、『ぼくたちの家族』('13)、『バンクーバーの朝日』('14)を経て着実に映画監督として成熟してきた石井裕也監督の撮った作品である。
そう思えば、だからこそ、どこか染まってしまった、どこかスレてしまった、どこか変わってしまった、そんな自分に対するリベンジを果たそうとしているとも見れた。

軽妙に挿入されたアニメーション。
無防備に黒く潰された画面の左側。
空から舞い落ちてくるCGの花びら。
そして繰り返されるストップ・モーション…

与えられたおもちゃで遊ぶかのごとく無邪気に画を紡いでいくその手法と、パンフレットにある「多くの人はあの頃の青臭さを捏造する」という言葉がまさに反響しあっている。
石井監督は、不安や戸惑いの中で一縷の希望が顔を覗かせる、あの、東京に来たばかりの幼き自分をスクリーンの中で再現しようと試みている。

「悪い予感だらけの今日と明日が、少しだけ、光って見えた」あの頃の自分を。




オリヴィエ・アサイヤス『パーソナル・ショッパー』-”uncanny”

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『パーソナルショッパー』(2016年、フランス)
オリヴィエ・アサイヤス監督

クリステン・スチュワート演じるモウリーンは絵を描く傍ら、パーソナルショッパーと呼ばれるセレブなど多忙で自分では買い物に行く時間がない人の買い物代行業をしている。遠距離の恋人がいるにも関わらず彼女がパリを離れようとしないのは、三ヶ月前に亡くなった双子の弟ルイスから「サイン」を待ち続けているからである。「サイン」らしきものを度々感じはするものの、それが本当にルイスからなのかわからない。そんな中彼女は正体不明の人物からテキストメッセージを受け取る。

ここで重要なのは、”見えない何かの気配”と”代行者ではなく何者かになりたいという欲望”が並列して描かれるところである。

「症候とは抑圧によって阻止されたものの代替物である」(フロイト精神分析入門』)

フロイトの理論に当てはめるならば、霊体験=症候、買い物代行業=抑圧、「別人になりたい」という潜在的欲求=阻止されたもの、ととりあえずは考えられる。

つまり、彼女は霊体験に苦しんでいるのではなく、何らかの理由によって、霊がいるという妄想に取り憑かれているという見方である。

この映画では、同じことが二度繰り返される。
たとえば短いスパンの中で二度コップが割れる。
彼女は一度目は友人が落としたのだと何の気なしに片すにも関わらず、二度目はルイスの仕業だと言うのである。コップが割れる。その一つの事象をとっても彼女が自在に解釈を操っていると捉えることがこれによって可能になる。しかも、コップは彼女が一人きりの二度目の時にしか浮かない。

私たちは登場人物が「見ているもの」を「存在するもの」と思い込むが、実はそれは最初から存在しないのかもしれない。

彼女の「別人になりたい」という欲求の根本は、双子の弟にあるのではないだろうか。
弟は優秀で、自分は売れない絵描き。パーソナルショッパーの仕事の中でクライアントに抱く「自分ももっと恵まれた人間になりたい」という根源的欲求は、比べ続けていた人生を通じて弟に抱いていたコンプレックスと親和性を持つ。
彼女は「弟からのサインをもらえたら、忘れて、新しい人生を送れる」と言う。
弟の「サイン」を受け取りさえすれば、自分は過去と決別しもっと別の自分になれるというシナリオを完遂させるべく、何度も「弟の霊」を強迫的に反復させる。

その儀式によってのみ、彼女は解放されるのだから。


タイトルは「パーソナルショッパー」。
霊媒師」ではなく、あくまでも「買い物代行人」。

これは強迫症に冒されたパーソナルショッパーのモーリスがみる悪夢の噺なのかもしれない。








ちなみにクリステン・スチュワートはアサイヤスの前作『アクトレス』でも、付添人の役で出演。