cinema note*

観た映画のことをつらつらと。グザヴィエ・ドラン、フランソワ・オゾン、ペドロ・アルモドバルなどクィア映画に傾倒しています。

『デヴィッド・リンチ:アートライフ』−揺蕩う煙は神秘のヴェールでありつづける

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何がリンチただ一人の語りを可能にしたのか? 『デヴィッド・リンチ:アートライフ』を読み解く|Real Sound|リアルサウンド 映画部

1/27に公開された『デヴィッド・リンチ:アートライフ』の映画評をリアルサウンドに掲載しました。

私のリンチとの出逢いは大学時代でした。教授がゼミでリンチの『マルホランドドライブ』と『ロストハイウェイ』を流しはじめた時、まだ映画もそこまで深く学んでいなかったこともあって、世界のどこにも存在しないようなノワール的なイメージに呆気にとられたことを今でも鮮明に記憶しています。

最初はこの映画のどこがいいのだろう?と頭を悩ませましたが、ある日先生が言いました。

「寝ている時に見ている夢が現実なのか、起きている時の現実が夢を見ているだけなのか、わからない」と。その言葉を聞いたときに、何故教授がリンチに強く惹かれるのか、その理由を少し垣間見たような気がしました。だからリンチの映画を観るときはいつもその教授のことを思い出すのです。誰かと映画が結びついて存在してくれること。それがとても嬉しい。

Representations on Trans Cinema

この文章は全然映画評とは関係のない私的なものなので悪しからず…その上ちょっと長いです。


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先日、トランスジェンダー映画を主題とした論文を、属する大学院に提出しました。
実はトランスジェンダー映画に特化した研究というのは、日本ではあまり行われていません。
というのも、トランスジェンダー映画、これは特に欧米では「トランスシネマ」と呼ばれるのですが、トランスシネマ自体がメインストリーム上ではまだそんなに製作されていないから、そしてゲイ・レズビアン映画に比べ未だ周縁的だからと言えるからかもしれません。
論文内には私的体験を書くことはできなかったのですが、今回このテーマを選んだのはグザヴィエ・ドランの『わたしはロランス』がきっかけです。


それは私が中学生のとき、国語の授業の時間に先生がいつものようにプリントを集め始めたときのことでした。
その時いつもと違ったのは、プリントを入れる箱に「ズボンを履いた人の赤い色のピクトグラフ」と「スカートを履いた人の青い色のピクトグラフ」が書かれていたことです。それを見た生徒たちは当然困惑し、結果としてその箱にはプリントがバラバラに入れられました。
男女のバラバラになったプリントの入った箱を見た私は、男女の区分けというものがいかに人間が勝手に決めたものかを知り、本来はきっとこの「ぐちゃぐちゃになった箱」こそが正しいのだと思いました。

その時の経験を次に思い出したのは大学生のときでした。
ある映画会社で働かせてもらっていた時に、上司と某テレビ局の人に会いに行く約束がありました。
事前に名刺を確認させてもらっていたので、男の人なんだな、くらいに思っていました。
ところがそこに現れたのは、綺麗な長い髪で、ピンクのネイルをした人。
最初こそ意表を突かれたものの、とても快活な人であっという間に時間が過ぎていました。
でも、その帰り道に上司がこう言いました。
あの人は本当は報道に行きたいらしんだけど、あのみてくれじゃ無理なんだよ、と。
何故、自己表現の在り方次第で希望とすることができなくなるんだろうと、どこか悔しいような、どうしようもない気持ちに陥りました。
そして、その時の憤りのようなものを抱えたまま時は経ち、『わたしはロランス』に出逢いました。
この作品はそれまでのそういった気持ちを思い起こさせると同時に、必ずこの作品を使って大きなまとまった文章を書きたいと私に強く思わせました。
その時からなんとなく構想を考えて、そしてようやく書き終えました。(それまで蓄積したものをまとめる執筆作業に要したのは一ヶ月間くらいですが)
正直、ロランスから始まった論文にもかかわらず、四作品取り上げた内、最後まで書ききれなかったのもロランスでした。
想い入れの強い対象ほど上手く言葉にできないことを改めて痛感しました。
トランスジェンダーに関する本文の中には、間違いや誤解もたくさんあるかもしれません。
それでも、たとえ稚拙でも、どんな生き方をする人もどんな人も、不当に虐げられることがあってはならないのだと、そして、芸術が、映画が、決してそんなことに加担することがあることのないようにと。
そんなことを願いながら、一字一句大切に書きました。
論文の中で繰り返し繰り返し言ってることが一つあるんですが(寧ろ一つだけしかないような気さえする)、それを一言にしてしまうとどうしようもなく陳腐で説得力がなくなってしまうから、それを伝えるために出来る限りの言葉を尽くしたのだと思います。


P.S 大学のリポジトリでは公開されないかもしれませんので、もし読みたいと思ってくださる方がいれば気軽にDMかメールしてください。

2017年年間ベスト映画TOP10

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今年はリアルサウンド映画部様でベスト10を選出させていただきました。

遅筆すぎて未だに映画評も3本しか書けていないのにも関わらず、宇野維正さん、小野寺系さん、加藤よしきさん、荻野洋一さん(豪華…!!)と共に選んでいただけるなんて、とても光栄でした。

今までずっと自分の文章が人目に触れるのが怖くて仕方なかったんですが、勇気を振り絞って映画評を出したことでお陰様で声をかけていただけることも増えました。
本当にありがとうございました。

2018年は(も?)、とにかく映画を多く観て、言葉に出来るように一作一作と真摯に向き合っていきたいと思います。

http://realsound.jp/movie/2017/12/post-141404.html

白石和彌『彼女がその名を知らない鳥たち』-無数の鳥たちの正体

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この、一筋縄ではいかない最低で最高な愛すべき作品について。
記憶の一部を無くせる道具があったなら、真っ先にこの映画の記憶を消してまた何度でも観たい、と思う程の稀有な映画体験でした。

http://realsound.jp/movie/2017/11/post-123219_2.html

ファティ・アキン『50年後のボクたちは』-行方知らずの救世主

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主人公のマイクは14歳で、14歳はきっと彼にとっての人生の節目の歳である。私の節目の歳として思い出すのは、窒息しそうだった16歳。
マイクと同じく、あの頃世界は学校と家庭の限られた空間のことでしかなく、どちらにも居場所がなかった。
あの時どこか旅に出る勇気があったなら、マイクと同じように自分が抱えている問題は大した問題ではないと笑えただろうか。いずれにしても一人では身動き一つ取れなかった私には、連れ出してくれる救世主が必要だった。心待ちにしていたのに現れてくれなかった、チックのような存在。

何処かで燻っている若き魂にきっと現れてくることを祈って。現れてくれなかったとしても、この映画がその代わりとなってくれることを願って。

http://realsound.jp/movie/2017/09/post-110922.html

エドガー・ライト『ベイビー・ドライバー』-二人には明日がある

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車にも音楽にも無知な女子でも虜になってしまう映画、それがエドガー・ライト監督の最新作『ベイビー・ドライバー』でした。

リアルサウンド映画部様にて映画評を寄稿しています。
http://realsound.jp/movie/2017/08/post-105094.html

2017.06.25 Perspectives トラン・アン・ユン×橋口亮輔

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フランス映画祭の特別イベントとして実現された今回のトークイベント。
短い時間ながらも日・仏それぞれを代表する監督なだけあって、充実したお話を伺うことができた。

まず、トラン・アン・ユン監督は「映画には二種類ある」ということを教えてくれた。
一つは「シーンによって構成される映画」。これはシーン構成を考えたり、何を物語るかを考えるときに使われる手法。
もう一つは「シーンのない映画」。これらは観客の異なるエモーションを引き起こす。

今回フランス映画祭に出品された『ノルウェイの森』以来の新作『エタニティ』は、後者の手法によって製作された。毎日何を撮るのかわからない中、それでも撮影は進んでいくというリスキーな現場であったらしい。しかし、彼は、このタイミングで本作のような手法をとることは、人生のこの段階において必要であったという風に分析する。そして当然次に作品を撮るときには、今回はどちらの映画なのだろう?ということは考えなければいけないことだと。

橋口監督が脚本があったのかどうかを問うと、トラン監督は「プロデューサーに資金集めをしてもらうために脚本は書いていた」と述べた。
当初は従来型の台本形式で脚本を執筆していたが、それでは原作で感じた良いところが損なわれてしまうと気づき書き直した。すると、その書き直した49ページの薄い脚本が採用された。しかしあくまで脚本は手がかりでしかなく、助監督をはじめとしたしたスタッフ達とその場で何を撮るかを決めていたらしい。
その話を聞くと橋口監督は、本作はコスチュームプレイで衣装など全てを用意しなければいけないのによくそのスタイルで実現できましたね、と驚きを見せていた。

私が『エタニティ』に対して感じていた、「トラン・アン・ユンらしさ」の物足りなさに関しては、橋口監督が代弁してくれた。
それが、「『シクロ』から『エタニティ』に至るに際し、ドラマチックな物語よりも、より瞬間的なものを捉えることに興味が移ったのか、スタイルが変わったのか?」という質問である。
トラン監督によれば、「観客の心にそれまで知らなかった感情を与えるためには、それまでと違ったやり方をとらなければいけない」という。
「『エタニティ』の場合は、映像がナレーションの役割を担っている。ナレーションが語っているものと、映像をあえて異なるものにした。ロジカルな画のつなぎ方をしていないのは、観客が予知できないようにし、驚きを持って観るという効果を狙っている」のだと。
トラン監督の話を受けて橋口監督が「スタイルが変わりましたねと言いましたが、変わってないんですね」と訂正すると、トラン監督は笑顔で橋口監督に向かって指を指していた。

続けてトラン監督はこう語る。
「映画の真髄は、世界にはこんなものがありますよと教えるところにはない。そのようなレクチャー的機能はテレビが担っている。
映画というのはそうではなく、言語であり、映画言語については私もまだ習っている途中である。
観客にリスペクトを持つこと、そのような態度は新しいものを示すことにあるのだと思う。映画は他の人のことを知るものではなく、自分、或いは自分の感受性を知るものなのだ。映画にできて他の芸術にできないのは、一つの映像から一つの映像に変化する瞬間に作家の意図を込めることができるところにある。それによっていかに観客の心を動かすことができるのかということを考えることができる」

橋口監督は、『エタニティ』が多額の予算のもとで作られたために、ドラマチックなことを求められるかもしれないのにも関わらず、一定の距離感を保ちながら撮られていることにリスキーささえ感じたという。そして、その中でトラン監督が何を撮りたかったのか、思考を張り巡らせていたと。
そこで橋口監督はパトリス・ルコントの『髪結いの亭主』を引き合いに出し、自身の美しいエピソードについて語りはじめた。
不幸のどん底にいたある夕暮れ時のこと、その日はやけに夕焼けが綺麗で、公園のベンチに汗だくになりながら座っていた。すると、言いようのない感情が湧き上がってきた。それは喜びとも絶望とも言えない感情で、何故だか、ああここで終わってもいいと感じた。その時、『髪結いの亭主』の女が幸せだから死ぬのだと自殺していった意味を理解できた。そしてそこには永遠につながるようなゼロ、一瞬があったのだと。
『エタニティ』である人物が絶命する場面がまさにそれで、物語の中の彼らにとってはドラマだが、俯瞰で観る私たちにとってそれは、とても静かな永遠なのではないだろうか、と。

その場面についてトラン監督は、「「美」というものが相反するものから生まれ、矛盾がエモーションを呼ぶのだ」と独自の映画論を語る。
「平和的光景で人が死んでしまう、だからこそそこに何かしらの感情が生まれる。映画は、自分を投影して観るもの。感動することによって自問自答に出逢う。エモーションというのは、「体験型」と「表現型」がある。それがどう違うかというと、「体験型」は自分たちの人生の中で経験すること。しばしば私たちは実際に起きたことに従うことしかできない。「表現型」というのは、人生について語ること。芸術は人生について語ることであり、人生を理解すること。芸術は「表現型」である。映画は人生よりも真実かもしれない。人生を語ろうとする映画にこそ、真実がある」。

続いて、『ノルウェイの森』で共演した菊地凛子とのエピソードにも触れる。
彼女と何人かで撮影後にディナーを楽しんでいた時のこと。
少し酔っていたように見えた彼女がトラン監督の横に行って、「聞きたいことがあるの」と話しかけた。
それは「私が映画の中で泣く時と、実際の人生で泣く時、映画の中で泣く時の方が本当みたいに感じる。そんな私って怪物かしら?」という内容であった。そんな彼女に対し、トラン監督は「君と僕はアーティストなんだ。表現者にとって、演じることは生きることよりも本物なんだ」と微笑みながら答えた。

「はじめに言葉ありき」
これは聖書にあるフレーズだそうで、世界はものを言うことができることで初めて存在することができるという意味のものだ。
トラン監督はクリエイトすることによって世界は存在しているのだと述べる。
私たちはそうでければただの動物でしかないのだと。
「しかし、言葉にすることは難しい。重要だが表現というものには抵抗があり、努力がなければ成し得ないこと」

橋口監督は「表現」というものに挑むクリエイターとして自分自身の使命を、自分と他者の間にある途方もないほどの遠い距離を超えて繋がることのできる奇跡のような瞬間を、単に待つのではなく力ずくで作っていくことなのだと話す。

「私たちの仕事にはたくさんの計算がある。よく、真摯な心でクリエイトしましたというクリエイターがいるが、彼らには疑問を抱いてしまう。というのも、あらかじめたくさん計算して、その結果その感情が起こるというのが正しいと考えるからだ。ありとあらゆる洗練された計算をすることで、観客へのリスペクトの証としての作品を世に送り出すことができるんだ」
トラン監督は予てから観客の審美眼を信頼して作品作りをする監督だが、そんな監督らしい「観客へのリスペクト」という言葉をもって今回のイベントを終えられた。