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cinema note*

観た映画のことをつらつらと。グザヴィエ・ドラン、フランソワ・オゾン、ペドロ・アルモドバルなどクィア映画に傾倒しています。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』-言葉が与えしもの

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ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
『メッセージ』(2016年、アメリカ)


ジュリアン・ムーア主演『アリスのままで 』は、皮肉にも言語学者であるアリスが、若年性アルツハイマーによって言語を失っていく映画であった。
言語の消失は、すなわち彼女の世界そのものの消失を意味していた。
それほどに私たちは言語と密接に、言語の世界の中で生きている。

言語によって思考様式が変わるというのはよく言われることで、文法の異なる英語と日本語間は度々比較される。
例えば前者は結論を先に言うため判断力に長け、後者は結論を先延ばしにできるため優柔不断だという風に。

主人公である言語学者のルイーズは、未知の生命体と遭遇し、彼らの話す言語を解読しようと試みる。
その過程でヘプタポット(七本脚)と名付けられた彼らの表意文字を会得していくルイーズは、彼らの言語と母国語である英語のバイリンガルになっていく(他の言語も習得しているかもしれないが)。


1960年代、心理言語学者のスーザン・アーヴィン=トリップは日本語と英語のバイリンガル女性に対しある実験を行った。
「文末をそれぞれの言語で考え、文章を完成させる」という実験であった。
たとえば「自分の望みが家族に反対されると・・・」という文章の結末は日本語では「とても辛い」となり、英語だと「自分の好きなようにする」となった。
別の「真の友は・・・」という文章の続きでは、日本語では「互いに助け合うべきだ」となり、英語では「率直に意見すべきだ」となった。
つまり、バイリンガルは同じ人間であっても、その言語によって異なる思考様式を持っていることがこれで明らかになったのである。

ヘプタポットは時間軸を持たない。過去と現在と未来という直線的な時間軸がない。
それゆえ彼らの言語を身につけていく過程でルイーズの時間感覚も変容していく。
そして、彼女が見ていたフラッシュバックの答えが後々明かされることとなる。
その謎が一つのキーワードによって解き明かされた時の深い感動は、筆舌に尽くしがたい。

思考様式が異なれば、当然導き出される答えや選択も異なってくる。

私たちは喜劇よりも悲劇を大事に捉える。
少しの嬉しいことよりも、少しの悲しい出来事に心を支配されて生きている。

ヘプタポットの時間感覚によって、ルイーズは未来の悲しい結末という事実だけでなく、その未来に訪れる何事にも変えられない幸福感に触れることができた。
単に想像上の産物としてではなく、現在的な温度を持つ幸福として。
だからこそ、悲しみのためにその幸福を諦めることなど、手放すことなどできなかったのだろう。

ヘプタポットの言語を身につけていなかったとしても、彼女は同じ決断をしたのだろうか。

彼らの言語を持たぬ私たちは、選択に求められる想像力と感受性を、常に問われている。


参考文献
courier japon April,2017.

石井裕也『夜空はいつでも最高密度の青空だ』-「死」は青い光を纏う

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『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年、日本)
監督:石井裕也
キャスト:池松壮亮石橋静河松田龍平

何故これほどまでに映画の歴史は「青」、その色に魅せられてきたのだろうか。

『ムーンライト』で黒人の肌を美しく輝かせる色が青じゃなかったら。
『ブルーベルベッド』でドロシーの瞼に塗られた艶めかしいシャドウの色が青じゃなかったら。
アデル、ブルーは熱い色』でアデルが惹かれるエマの髪の色が青じゃなかったら。
『BLUE』でスクリーンを貫き続ける色が青じゃなかったら。

もし「青」がなかったとしたら、その色は何色だったのだろう。

本作では、月夜を見上げるその瞬間に二人を照らす色として青が象徴的に使われている。
その色はどこか死臭を感じさせるのだが、ある線虫は死の過程で本当に青い光を発するらしい。

最果タヒの詩にも死ぬという言葉がフランクと言っていいまでに登場し、私たちは映画でも二度死を目撃することとなる。

幼い頃に母親を自殺で失くし、看護師として死がいつも傍につきまとう場所にいる美香にとっては、「きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけでみんな、元気そうだと安心する」。ただきみが生きている、それだけでいい人間。

対して慎二は毎日明細書とにらめっこして生きていくための数字と格闘している。生きている、それだけではダメで、お金を稼がなくてはならない。日払いの工事現場に、生きている、それだけでいい、なんて口笛を吹いている者なぞいない。そんな「生」の泥臭さで充満している場所に生きている。

そもそも左目が見えない慎二と両目が見えている美香では見ている世界そのものが違う。
全く異なる二人が出逢うというのはこれまでのボーイミーツガールものでも定石であった。
「ねぇ、恋愛すると人間が凡庸になるって本当かな」
「そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」
恋や好きという感情に訝しい二人は、幾度とも重なる偶然を運命だと楽観的に捉えることはない。
高揚する感情に手放しで喜んだりもしない。ただゆっくりと、無意味で冗長なお喋りを重ねていくように蛇行しながら離れたり近づいたりを繰り返していく。


本作からは「恥ずかしさ」或いは「あざとさ」を感じる。
これがある若き監督のデビュー作であれば拙さをその理由にしてしまえるのだが、これは『舟を編む』('13)、『ぼくたちの家族』('13)、『バンクーバーの朝日』('14)を経て着実に映画監督として成熟してきた石井裕也監督の撮った作品である。
そう思えば、だからこそ、どこか染まってしまった、どこかスレてしまった、どこか変わってしまった、そんな自分に対するリベンジを果たそうとしているとも見れた。

軽妙に挿入されたアニメーション。
無防備に黒く潰された画面の左側。
空から舞い落ちてくるCGの花びら。
そして繰り返されるストップ・モーション…

与えられたおもちゃで遊ぶかのごとく無邪気に画を紡いでいくその手法と、パンフレットにある「多くの人はあの頃の青臭さを捏造する」という言葉がまさに反響しあっている。
石井監督は、不安や戸惑いの中で一縷の希望が顔を覗かせる、あの、東京に来たばかりの幼き自分をスクリーンの中で再現しようと試みている。

「悪い予感だらけの今日と明日が、少しだけ、光って見えた」あの頃の自分を。




オリヴィエ・アサイヤス『パーソナル・ショッパー』-”uncanny”

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『パーソナルショッパー』(2016年、フランス)
オリヴィエ・アサイヤス監督

クリステン・スチュワート演じるモウリーンは絵を描く傍ら、パーソナルショッパーと呼ばれるセレブなど多忙で自分では買い物に行く時間がない人の買い物代行業をしている。遠距離の恋人がいるにも関わらず彼女がパリを離れようとしないのは、三ヶ月前に亡くなった双子の弟ルイスから「サイン」を待ち続けているからである。「サイン」らしきものを度々感じはするものの、それが本当にルイスからなのかわからない。そんな中彼女は正体不明の人物からテキストメッセージを受け取る。

ここで重要なのは、”見えない何かの気配”と”代行者ではなく何者かになりたいという欲望”が並列して描かれるところである。

「症候とは抑圧によって阻止されたものの代替物である」(フロイト精神分析入門』)

フロイトの理論に当てはめるならば、霊体験=症候、買い物代行業=抑圧、「別人になりたい」という潜在的欲求=阻止されたもの、ととりあえずは考えられる。

つまり、彼女は霊体験に苦しんでいるのではなく、何らかの理由によって、霊がいるという妄想に取り憑かれているという見方である。

この映画では、同じことが二度繰り返される。
たとえば短いスパンの中で二度コップが割れる。
彼女は一度目は友人が落としたのだと何の気なしに片すにも関わらず、二度目はルイスの仕業だと言うのである。コップが割れる。その一つの事象をとっても彼女が自在に解釈を操っていると捉えることがこれによって可能になる。しかも、コップは彼女が一人きりの二度目の時にしか浮かない。

私たちは登場人物が「見ているもの」を「存在するもの」と思い込むが、実はそれは最初から存在しないのかもしれない。

彼女の「別人になりたい」という欲求の根本は、双子の弟にあるのではないだろうか。
弟は優秀で、自分は売れない絵描き。パーソナルショッパーの仕事の中でクライアントに抱く「自分ももっと恵まれた人間になりたい」という根源的欲求は、比べ続けていた人生を通じて弟に抱いていたコンプレックスと親和性を持つ。
彼女は「弟からのサインをもらえたら、忘れて、新しい人生を送れる」と言う。
弟の「サイン」を受け取りさえすれば、自分は過去と決別しもっと別の自分になれるというシナリオを完遂させるべく、何度も「弟の霊」を強迫的に反復させる。

その儀式によってのみ、彼女は解放されるのだから。


タイトルは「パーソナルショッパー」。
霊媒師」ではなく、あくまでも「買い物代行人」。

これは強迫症に冒されたパーソナルショッパーのモーリスがみる悪夢の噺なのかもしれない。








ちなみにクリステン・スチュワートはアサイヤスの前作『アクトレス』でも、付添人の役で出演。