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cinema note*

観た映画のことをつらつらと。グザヴィエ・ドラン、フランソワ・オゾン、ペドロ・アルモドバルなどクィア映画に傾倒しています。

2016年トランスジェンダー映画まとめ

今年はきちんとトランスジェンダー映画を研究しようと思った年だったので、映画祭で同テーマの映画が上映される時は可能な限り観に行こうと決めた年でもあった。だからかもしれないけれど、今年はトランスジェンダー映画が数多く出された年のように思った。(以前から留意していればいつも沢山あったのかもしれないけれど・・・)

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まずは三月に劇場公開したトム・フーパー監督の『リリーのすべて』。

風景画家のアイナーが同じく画家の妻にモデルを頼まれてストッキングを着用したことがきっかけで、女性のリリーという人格に目覚めていく。最初はゲーム感覚でいた二人であったがアイナーがリリーを統制できなくなる。そして画家として伸び悩んでいたゲルダは皮肉にもリリーの肖像画を描くことで軌道に乗り始める。そういえば、映画の中で恋人がその恋人の肖像画を描くときは、決まって描かれる方はアイデンティティが不安定。たとえば『アデル、ブルーは熱い色』で麗しき青髪の画家レア・セドゥに描かれるアデル、『ポンヌフの恋人』で剥き出しのジュリエット・ビノシュに描かれるドニ・ラヴァン・・・。

 エディ・レッドメインが徐々に女性化していく様子がまさにお耽美で美しく、トム・フーパー監督の絵画的構図や独特の演出など映像表現を眺めているだけでも楽しい。

原作版『リリーのすべて 』からの改変が結構あって映画版はより妻のゲルダがリリーを支える感動ものになるようになっていたかな。

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観れなくてとても悔しい思いをしていた映画はレインボー・リール東京国際映画祭で上映された『ガールズ・ロスト』。少女を少年に変える不思議な花を見つけた三人の少女を描いた映画で、設定からして素敵。だから来年のトーキョーノーザンライツフェスティバルで再上映される情報を見た時にはどれだけ歓喜したことか!

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六本木で行われた東京国際映画祭では、フィリピンから『ダイ・ビューティフル』が出品され、見事最優秀男優賞、観客賞を受賞して日本の観客からも受けいれられた。この上映後のトーク・ショーでは、主演のパオロ・バレテロスが初めて出来上がった映画を観て感極まって詰まって話せなくなる瞬間があった。そんな監督や役者さんたちと同じ空間で同じ作品を観て感動できていたのかと思うと、改めて胸が熱くなる。ジュン・ロブレス・ラナ監督はネットでトランスジェンダーが中傷されているのを目にして、今このテーマで映画を作らなければいけないんだという使命感に駆られたらしい。

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同映画祭からは、受賞は逃したもののインドネシアからトランスセクシュアルのセックス・ワーカーを描いた『ラブリー・マン』が出品された。インドネシアでは厳しい検閲に加えて、イスラム教徒が大多数のムスリム国家という宗教的事情も相まってジェンダーセクシュアリティ表象との対立が激しい。この映画ではそんなインドネシアにおける宗教とジェンダーの相克問題を、ムスリム教徒のスカーフを纏った娘とトランスセクシュアル父親を対比させることによって前景化している点でとても巧い。二人がそれぞれスカーフとウィッグを取って対話し始めたところなんてハッとさせられた。上映後トーク・ショーでは、確か女性がインドネシアに旅行に行った際こういう人に出くわさなかったけど本当にいるの?という質問をしていたと記憶しているのだけど、テディ・スリアアトマジャ監督は実際にインドネシアで異性装の娼婦と少女を見かけたところからイマジネーションを膨らませていったらしい。映画自体もドキュメンタリータッチでインドネシアの蒸し暑かったり雑多だったりする喧騒がひしひしと伝わってきた。

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『viva』はラテンビート国際映画祭において上映されたキューバアイルランド合作作品で、美容師の少年がドラァグ・クイーンの仕事に魅せられていくと同時に失踪していた父親との確執を乗り越えていく様子が描かれていた。そういえば息子の女性化と父親の厳格な「男らしさ」の対立の問題は『ダイ・ビューティフル』にも共通したテーマだった。キューバの殺伐とした街で淡々と貧困に窮した生活を送っていた少年がステージの上で、やっと生きる歓びを見つけたと言わんばかりに熱唱するラストには感動を禁じ得なかった。

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出典:http://www.uplink.co.jp/evolution/

あとは、渋谷アップリンクで上映のルシール・アザリロヴィック監督『エヴォリューション』もある種のトランスジェンダー映画と言ってしまってよいのではないかな。説明的描写は一切排除されてはいるものの、女性の出産機能を備え付ける人体実験を施して少年を両性具有的存在にしてしまうという不思議オカルト映画。手術でその人のジェンダーを無理やりトランスさせてしまうなんて、アルモドバルの『私が、生きる肌』みたい。

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出典:http://kareamu.com

来年2月25日には生田斗真トランスジェンダーを演じる『彼らが本気で編むときは、』が上映される。日本でトランスジェンダーを主人公にして描いた映画はほとんどなかったような気がするのでどんな描き方をしているのか気になるところ。

ほんの一部しか挙げられてないと思うので2016年他にもこんなトランスジェンダー映画あったよ、というご指摘あったら是非下さい!

 

【ヴェトナム戦争映画遊泳】

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 ベトナム戦争の映画を観る機会があったので一度まとめてみた。まず、決定的に他の戦争映画と異なるのは、朝鮮戦争第二次世界大戦映画など、ハリウッド映画産業は戦時中からその戦争を描いた映画を量産し始めるのが常套手段であったのに対し、ベトナム戦争に関してはすぐには作られなかったこと。その特殊状況自体がベトナム戦争における政治的問題を色濃く反映している。らしい。

 『ディア・ハンター 』(マイケルチミノ、1978年)は、早い段階でベトナム戦争を主題として扱った映画として知られているが、残虐なベトナム兵と傷付いたアメリカ兵という図式を強固に描くことによって、ベトナム戦争の事実そのもの、とりわけアメリカの敗北という事実からは目を背けているように見える。『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ、1979年)で、コッポラはベトナム及びベトナム戦争における残虐性や狂気を描いた。そこには未開な土地や未知なるものに対する戸惑いや恐怖が満ち溢れていた。 『フルメタル・ジャケット』(スタンリー・キューブリック、1987年)では、一般の若者が兵士へと成長していく場である訓練基地に着眼している。『映画で読むアメリカ』で長坂寿久は本作で初めてアメリカベトナム戦争映画史において、ベトナム兵の心をアメリカ兵の心に通わせ、未知なるアジア人ではなく人間としてのベトナム人をアメリカ人が見た映画であると述べているが、この半年後に公開の諧謔に富んだ快作『グッドモーニング,ベトナム』(バリー・レヴィンソン、1987年)では、更にベトナム人が生身の人間として登場し、ベトナム人とアメリカ人の交流が主題として掲げられる。ここではベトナム戦争というものが人と人との絆までもを分断してしまう悲劇として描かれている。この年は「見えない敵」であったベトナム人が明確に可視化した年である。 また、 ベトナム戦争映画は別名ジャングルジャンルとも呼ばれる。鬱蒼とした森の中で見えない敵と戦っている=誰と戦っているかわからないアメリカ兵の混乱状態を表したのがオリヴァー・ストーン監督による『プラトーン』(オリヴァー・ストーン、1986年)である。この映画は、ベトナム戦争の意義を問いかける主人公のモノローグで幕を閉じる。そこには戦時中に戦ったベトナム兵士達への敬意や賞賛と共に、ベトナム戦争は一体アメリカ人にとって何だったのか、という自問自答が垣間見える。オリヴァー・ストーンベトナム戦争映画を三部作として描いているが、その二作目である『7月4日に生まれて』(オリヴァー・ストーン、1989年)は、祖国の為という大義の元戦争に志願した若者が下半身付随になって帰国したのち、反戦運動に加担していくことになる過程を描いた映画である。主人公は下半身付随になることで男性性を去勢されるのだが、これはベトナム戦争によるアメリカの自尊心の欠落を象徴する。つまり、主人公自身がアメリカという国をそのまま体現しているのである。それは主人公が7月4日生まれに設定されていることからも明らかだろう。この映画ではベトナム戦争に対して深く内省的であり、反戦主義的な立場を取っている。一方、三部作最後となる『天と地』(オリヴァー・ストーン、1993年)は、ベトナム人女性の目線からベトナム戦争を描き出した稀有な作品である。レ・リー・ヘイスリップの自叙伝小説の映像化であり、実際に彼女が経験したことが基になっている。一人のベトナム人女性がベトナム戦争中に邂逅したアメリカ兵と結婚し渡米することによって、第三世界的な女性が先進国に順応しながら逞しく独立した女性へと変容していく様子に焦点を当てている点でフェミニズム的な映画ともいえるが、この作品においては、いわばベトナム(人女性)とアメリカ(人男性)の結婚を描くことを通じて中立的な立場をとっている。懸隔した異文化間、異宗教間の撞着を経てそれでも今作において「復讐する相手が不在」であると言うストーンの言葉通り、彼女自身も全てを赦し、受け入れて静かに終わる。

 このように、ベトナム戦争をどう捉えるべきかという彷徨から始まり、忸怩たる内心を曝け出し、最終的に赦しという主題に辿り着いたオリヴァー・ストーン監督のように、ベトナム戦争という一つの事象は、錚々たる映画作家達によって変奏されながら多角的に描かれてきた。その描かれ方は多種多様でどの作品も非常に興味深い。

 

参考文献

映画で読むアメリカ (朝日文庫)

映画ジャンル論―ハリウッド映画史の多様なる芸術主義

1980年代の映画には僕たちの青春がある (キネマ旬報ムック)

【THE LOVERS ON THE BRIDGE】

          レオス・カラックスポンヌフの恋人

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 本作は、『ボーイ・ミーツ・ガール』、『汚れた血』に続く、ドニ・ラヴァンレオス・カラックス監督の分身のアレックスとして登場する「アレックス青春三部作」の最終作である。この映画の舞台はフランスで最も古い橋、ポンヌフの橋。映画の中の橋とは、別の世界を繋ぐ境界であり、出会いや別離の場でもある。そして世界と世界の狭間という意味においては不安定さの象徴にもなりえる。本作ではこれらの橋の役割が十分に発揮されており、片足が不自由で浮浪者でもある不安定なアレックス自身の人物表象そのものにもなっている。ミシェルもまた家出をしてきた少女であり、失明する不治の病にかかっている未来の見えない不安定な存在である。しかもこの橋は改装中であり、不安定である上に、不完全な建造物だ。不完全な建造物の上で、片目の見えない少女と片足の不自由な少年という不完全な人間二人が邂逅する。改装中の橋は、身体的にも精神的にも欠陥を抱えている彼らにこの先訪れるであろう修復、或いは崩壊を示唆する。
 さらに改装中の通行禁止の橋は、他者が入ってくることのない閉鎖的な世界を作り上げる。多くの人にとって橋はただ通り過ぎ去るだけのものであるが、彼らにとってのそれは留まる場所であり、帰属の場所であった。しかし、「治らないものはない」というミシェルの言葉の通り、橋の改装もいずれ終わる。それは二人の世界の終焉を告げる。クライマックスで二人は改装が終わった橋の上で再会するが、もうそこは二人だけの世界ではなく多くの人々が行き来する開かれた世界であった。そんな世界にまだ慣れないとでもいわんばかりに、車にぶつかりそうになりながら歩いてお互いに近づく。

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 結末の舞台で橋の完成と共にもう一つ大きく様変わりしているのは、雪景色になっている点である。ここで降っているものが雪ではなく雨だったとしたら、ペシミスティックな雰囲気に覆われていたであろうこの場面も、真っ白な雪によって救われている。この雪はセットに人工的に積もらされた雪であり、特定の演出を狙ったものであることが伺える。それは楽観的な演出の為というよりも寧ろ、彼が本来抱いていた悲観的な結末を、その純白さで覆い隠すためだったのではないだろうかと考えずにはいられない。彼らが立っている場所は橋から船に移行したが、船も同じく不安定さのメタファーとして機能する。水の上の船というのは一歩踏み出せば水の中に落ちてしまう命の危険性や、水の流れに身を預けなければいけない無力性、限られた場所の上でしか身動きがとれなくなる拘束性などを内包している。よって、船にはアレックスの欲望が具現化されている。アレックスの願いは、ミシェルが自分の世界の内に留まっていてくれることだから。「帰らなければいけない」と言うミシェルに激怒したアレックスは、船に乗ることで彼女を束縛し、その願望を達成しようとする。アレックスが自分の欲望を果たすために水を利用しているのは、お金を水の中へ落下させ彼女から奪った場面からも明らかだろう。本作での水は、タルコフスキーのそれとは異なった主張をしているようにみえる。彼は水を「地球で最も美しいもの」と述べているように、揺るぎ無い美の象徴であり、様々な姿に形を変えられる神秘として描くが、カラックスにとっての水はあくまでも物質であり道具である。
 カラックス映画には必ず赤ちゃんが登場する、という指摘があるように、ミシェルがスケッチに行ったリュクサンブール公園では周りにたくさんの赤ちゃんがいたが、この映画においてはアレックスが赤ん坊の役を担っている。何も持たない無力で剥き出しの存在としての赤ん坊。彼は眠り方もわからずハンスに睡眠薬を貰って眠っていたが、ミシェルが彼に眠り方を教えてやる。眠り方だけでなくお酒の飲み方も教えてやるなど、何かを教える場面が所々に出てくる。親に従順に従う子どものように、ミシェルが盲導犬になるように言えば犬の真似をし、銃を撃てと言えばおとなしく撃つように、アレックスはミシェルの命令に逆らわない。ミシェルはアレックスの自画像を描いてやるのだが、それは彼自身の自我を形成する行為ともとれる。彼女の手によってアレックスの自我が芽生えていくその様は、恋人関係というよりも親子関係に近い。母親不在のアレックスにとってミシェルは母親である。そんなアレックスが何度か水に飛び込むのは母体回帰の願望ともとれる。母親の羊水として、安全や安らぎの対象としての水の希求。アレックスと水は切り離せない関係にある。

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 もう一つアレックスと切り離せないのは炎である。二人が出逢う路上で、ミシェルはアレックスのもとに近づいてきたバスのライトに目を痛め次のショットでは既に姿を消している。彼女が劇中で強烈な光によって目を傷める箇所が度々登場することをここでまず予期させると同時に、アレックスによってもたらされた光は彼女にとって痛みでもあることを示唆する。アレックスの大道芸の火吹きにおいても彼女はその炎の強烈な光に目を傷める。目が痛むほどの強い光を人は長く見続けていることができない。よって必然的にアレックスの強い光はミシェルの瞳をつぶらせ、盲目状態にさせる。ミシェルを盲目にさせ、世界を奪うことが彼の世界にミシェルを留まらせることのできる唯一の手段なのだ。また、アレックスもミシェルを愛しているが故の不安や恐怖から、自傷行為に走らざる得ない精神状態から免れることができずにいた。身体的な痛みが二人の関係性には不可避なものである。

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 このように、「ポンヌフの恋人」では言語よりも身体的な感覚が重要な意味をもつ。ミシェルとアレックスは言語によるコミュニケーションが極端に少ない。彼らのコミュニケーションは走る、歩く、踊る、触れる、など身体によるものである。お酒を飲んで寝っ転がって笑い合う。それだけで彼らの距離は近づいた。そして、身体的コミュニケーションが彼らにとって重要であることが最も顕著に表れるのは、祝祭で花火が打ち上がる夜空を背景に二人が踊る場面ではないだろうか。言葉は消えない。聞こえるのは大きな笑い声、花火の音、銃声、音楽のみである。言葉を発しようともそれらの音に掻き消され、相手には届かない。時に二人のコミュニケーションは暴力にまで至りながら、心の距離は近づいたり離れたりする。
 二人の間に共通している行為の一つに、窃視がある。ミシェルが初めてポンヌフの橋に訪れる場面でアレックスは彼女の絵が描かれたスケッチブックを覗き見する。彼女が倒れた時にも、ミシェルの手紙とともに、眼帯を剥がして彼女のもう一方の目を覗き見る。普段眼帯によって閉ざされたその場所は彼女にとっての闇であり、アレックスにとっての未知の領域である。ミシェルの住む場所に出向き彼女の部屋と思われる場所でノートを覗き見する。直後には、身体を洗うミシェルの裸体までをも覗き見する。愛する人の闇や私的領域に侵入するエゴイステッィクさ。
 一方ミシェルが覗くのは、恋人の部屋のドアの覗き窓である。恋人の姿を目に焼き付けておきたいという要求を拒絶された彼女は、その恋人を撃ち殺しその姿を覗く悪夢を見ている。ミシェルもまた利己的な方法で愛する人を覗きたいというエゴイスティックな感情を隠し抱いていることがこの場面でわかる。しかし、スコポフィリーの対象がアレックスはミシェルなのに対して、ミシェルは昔の恋人であることや、「あなたのことは愛していなかった。私のことは忘れて。」という置き手紙と共に橋を去ることなどをふまえて、ミシェルはアレックスのことを愛していたか?という疑問が浮かび上がる。二人の間に愛は存在したか?

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 その答えのキーパーソンとなる人物が浮浪者仲間である老人ハンスである。ハンスとミシェルが夜のルーヴル美術館に忍び込み、蝋燭の炎だけで絵画を見るシーンでは、レンブラント・ライティングが使用されている。この照明方法は、善と悪や生と死といった哲学的で重要な問題提起を描くシーンだけに使われることがほとんどだが、例に従ってこの次のシーンではハンスは溺死してしまう。彼は、女性が浮浪者になることがどれだけ悲しいことかを、自らの辛い経験から知っている。ミシェルを「お前は違う」と引き離し、もとの生活に戻そうとする点で、アレックスとは真逆の接し方をする。本当に彼女のことを大切に思っているのなら、目が回復して元の生活に戻ることが彼女の人生にとってよりよい道であり、利己的な感情でそれを妨げてはいけないのではないか。しかし、愛し方というのは様々なのだからどんな愛し方にせよ、愛してることには変わりないのではないか。私達は誰しも、泣き叫びながら無鉄砲に愛を求める飢えた赤ん坊のアレックスを自分自身に内包している。時に露呈しそうになりながら、なんとかアレックスを飼い慣らすことでハンスのような日々を送っている。
 一見すると台詞の少ない寡黙な映画であるように見えるが、ここに登場する橋、水、炎、雪、音楽・・・それら全てアレックスの内に秘めた感情を表出させることを担わされた饒舌な代弁者であることに私たちは気付く。膨大なセットの費用やアレックス役のドニ・ラヴァンの怪我などが原因で二度制作中断の危機に陥った本作は「呪いの映画」とも称されたが、違いなくカラックスによる「愛の映画」であると言える。

 

参考文献

映画表現の教科書 ─名シーンに学ぶ決定的テクニック100

レオス・カラックス―映画の21世紀へ向けて (リュミエール叢書)